2008/12/29 月曜日

『遠くに望むもの』

小森陽一日記 13:06:02

今年も残すところ3日を切った。
油山に登り、杉の木の間から見える街並み、そして海を眺める。
こういうシチュエーションの時は、なんとなく来年への誓いを立ててみたくなるものだ。
『今年もいろいろやりました。来年はもっといろいろやろうと思います!』

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そう、まだまだいろんな事がやってみたい。

ただやるだけじゃなくて、もっと広く、深く、精一杯やってみたい。
ずっと夢だと思っていたものが、微かに現実実を帯びて来た。
まだまだ遠いが、望みを抱きながら進んで行きたい。

ブログを読んでいただいた皆さん、今年もお世話になりました。
皆さんの健康と発展を祈りつつ、
また来年、元気にお会いしましょう!

   H20.12.29 

2008/12/24 水曜日

『常時高出力の友』

小森陽一日記 17:21:42

確か内野さんが言っていた。「元気が有り余ってる男」だって。その意見に賛成!ほんとにその通りだと思う。溢れんばかりのエネルギーで食べ、飲み、話し、動く。常にその出力は全開、フルスロットルになればいったいどれだけのエネルギーがほとばしるのか想像も出来ない………。

「252生存者あり」、まさに体当たりでキャンペーンをこなしてくれた。それももう今日の舞台挨拶を残すのみ。彼でなければ到底こなしきれなかったキャンペーンだったと思う。夢を売る人の心意気を間近で見せてもらったよ。本当にありがとう、そしてお疲れ様。
また来年もよろしく!!

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「12.22.自宅にて」

2008/12/16 火曜日

『ワンワン、ボールと戯れる』

小森陽一日記 17:20:02

ここんところずっと忙しかったから、ゆっくりと相手してやる時間がなかった。ようやく普段のリズムに戻りつつあるこの頃、せめてもの罪滅ぼしにと、朝と夕方、散歩にボール遊びにブラッシングにとお付き合いさせていただいている。

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散歩から戻ると庭でボール遊びをするのが恒例だ。紐のついたボールを見せると目つきが変り、我を忘れて飛び掛って来る。そりゃもう獣丸出し、怖いぐらいだ。一度食いついたら離さない。こっちは紐を右に左に引っ張ってなんとか引き離そうとする。その駆引きがなんとも面白い。負けたフリをして紐から手を離し、しばし安心させたところでパッと引っ張る。悔しいのか「ガウガウ!」言ってボールを追い掛けて来る。今度は遠くへボールを投げると、飛んで行った方へまっしぐら!まるで弾丸のように駆けて行く。それの繰り返し、息が切れて舌が垂れてくると終わりの合図だ。

よく遊び、よく食い、よく眠るせいか、この2週間ほどで目に見えて胴体が丸々となってきた。ウンチも驚くほどデカイ。これでいいのかと思うけど、訓練士さんからは「冬だからこれくらい脂肪が付いても大丈夫ですよ」と言われている。実際、夏場とは比べ物にならないくらい元気だ。寒さなんか微塵も感じてないくらい機敏に動く。童謡の「雪」にある「犬は喜び庭駆けまわり~」とはよく唄ったものである。でもこっちはたまに炬燵で丸くなっていたい………。

2008/12/9 火曜日

『初日』

小森陽一日記 17:01:01

落ち着かないもんです………。何度体験してもやっぱり最初は………。マンガにしても、本にしても、ドラマにしても、映画にしても、やっぱりお披露目の時は落ち着きません………。

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しかし―――、ドラマは素晴らしい数字を叩き出し、映画は沢山の人が劇場に足を運んでくれておりました!めちゃくちゃ嬉しかった。一人ひとりのお客さんに感謝しておりました………。ありがとうございます!ほんとにほんとにありがとうございます!!

一度も台風が上陸しなかった今年、最後のサイゴに「252」旋風が上陸です。これからますますすべてを巻き込んで吹き荒れますので、みなさんお覚悟を!!

2008/12/2 火曜日

『新潟へ飛ぶ』

小森陽一日記 17:15:31

福岡から新潟へは一日一便のみ。その日の原稿をギリギリで片付け、僕は新潟行きの飛行機に飛び乗った。目的はもちろん「252」の舞台挨拶、新潟の皆さんに自分の想いを伝える為だ―――。

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2004年10月23日、新潟中越沖地震発生。道路が崩れ、家が倒壊し、山が崩落したあの地震………、そんな中、幼い少年が瓦礫の中から救出された映像が全国に中継された。助け出したのは東京消防庁の消防救助機動部隊、通称ハイパーレスキュー隊。僕は彼等に取材を試みた。そして「252」という数字をノートの端に書き留めた。やがてその走り書きが大きな意味を持つ事も知らずに………。

「252 生存者あり」、舞台は東京だが、この作品の出発点は新潟にある。だが、この物語の原型を最初に書いた時、あの地震の取材の事はまったく意識がなかった。
ただ伊藤英明に渡すお土産として、彼をイメージし、そして新たな魅力を引き出す為に父親としての主人公を書いた。ほんとうに軽い気持ちで渡したにすぎない。しかし彼はその短い物語の中に明確な、そして強いメッセージを読み取っていた。252、すなわちそこに生存者がいるという事。おそらく誰よりも早く、書いた本人の僕よりも確かに、この物語の本質を読み取ったのは彼だと思う。やはり彼も、瓦礫の中から救出されたあの映像を見ていた―――。

突然の大災害、家族、恋人、友人、様々なものが一瞬のうちに引き裂かれてしまう。
それはどれほどの痛みが伴うものなか、想像すら出来ない。幾ら話を聞いてもその痛みはわからない。だけど懸命に考えた。想像した。思いを馳せた。そして、苦しみの中で求め合う、信じあう、夫婦、親子、兄弟………、様々な人々の絆を書いた。映画が完成し、新潟でもキャンペーンが行われると分かった時、僕は「行きたい」と思った。佐藤、下田両Pに「新潟には是非行きたい」と伝えた。両Pは「わかりました」と頷いてくれた。

「新潟の皆さん、あの地震で、そして洪水で、本当に苦労された事と思います。いや、今もまだ苦しみ続けている人が沢山いらっしゃると思います。この「252」が少しでもそんな方々の力になれれば、生きる希望になれれば、僕は嬉しいです」
これを自分の口からどうしても伝えたかった。

もちろん新潟だけではない。阪神淡路大震災で被災された多くの方、福岡西方沖地震で被災された方、洪水、竜巻、様々な自然災害に巻き込まれた方々にとって、この作品がエールとなれば、力となれば、こんなに嬉しい事はない。最後に立ち向かえるのは人の絆――――、僕はそう信じている。

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