2010/6/29 火曜日

『その時僕は中学生だった』

小森陽一日記 11:42:36

6月25日、「ウルトラマン80」のDVDBOXが発売された。「熱血、矢的先生編」と銘打たれた前半シリーズだ。「ウルトラマン80」が放送されたのは、その名が示す通り1980年4月2日から翌年3月25日までの一年間、僕は中学一年生だった。奇しくもウルトマン先生が担任を受け持った、桜ヶ丘中学一年の生徒と同じ歳だった――――。

第1話「ウルトラマン先生」の事は覚えている。人間の悪い心、即ちマイナスエネルギーが怪獣を復活させると気付いた80は、一番多感な歳頃である13歳~14歳に接触し、悪い心の芽生えを摘み取ろうとする。そう、理科の新任教師矢的猛として教壇に立つのだ。その一方で怪獣・怪奇現象専門のチーム、UGMの隊長オオヤマに見初められ、夜と週末はUGM隊員として活動するという二足の草鞋を履く事になる。
「なんか設定変わってんなぁ………」
生徒達の話し言葉や態度には同じ歳から来る反発はあったものの、物語の幕開けは十分な期待を持たせてくれた。

2話、3話、4話と回を重ねるうち、ウルトラマン先生と生徒達の絆が深まっていく。その反面、自分がウルトラマンである事を人間に知られてはいけない、学校や生徒にUGMである事を知られてはいけない、という強烈な制約がブレーキを掛けた。どんどん物語が堅苦しくなっていった………。

そしてある回より突然、学校編が消えた。プイッと、何事もなかったかのように、何の説明もなく、ウルトラマン先生編は終わりを告げたのだ。さすがにこれには違和感大アリだった。
「学校はどうなった?」「あの子達はどうしてる?」「京子先生との事は?」
なんの説明もしないまま、UGMの隊員として、これまでのウルトラマンと同様の設定で物語が展開された。

だから僕もある回よりプイッと見なくなった。よって「ウルトラマン80」の三分の二は未見である。正直腹が立ったし、こっち(視聴者)をバカにしてるとも思った。そしてこの時、ウルトラマンからおさらばした………。

再びウルトラマンを見たのは大人になってからである。ガレージキットの色を塗る際、体色などを確認する為だった。寝ても覚めてもウルトラマンという狂熱は失せ、もはや実務的な事しかそこにはなかった………。

そう、「ウルトラマン80」は僕をウルトラマンから卒業させたウルトラマンなのだ。

………しかし、40歳を過ぎてから心境が変化して来た。ウルトラマンに回帰しようという気持ちが強くなって来た。
 
例えばサッカー、選手がいて、監督、コーチがいて、審判がいて、観客がいる。それぞれの役割をそれぞれの年代が引き受けている。50歳の選手はいないし、20歳の監督もいない。それぞれが今の歳で出来る事を懸命にやっている。

これまで僕はずっと観客だった。騒いだり冷めたり地団駄を踏んだりしながらウルトラマンと関わっていた。今度は別の関わり方をしてみたいと密かに思っている。
その為にも見なかった「ウルトラマン80」の三分の二を、この機会にしっかりと鑑賞しようと思っている。あの時は分からなかった作り手の想い、楽しさ、口惜しさ、歯がゆさなどが今なら感じ取れそうな気もするから………。

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2010/6/22 火曜日

『毎朝ゲゲゲ』

小森陽一日記 11:49:15

近頃の朝はもっぱらゲゲゲで始まっている。

ゲゲゲと言えば日本では知らぬ者の方が少ないフレーズだろう。ご存知、水木しげる先生の代表作、「ゲゲゲの鬼太郎」である。鬼太郎はもとより、目玉親父、猫娘、ぬりかべ、砂掛け婆ぁ、子泣き爺ぃ、一反木綿、そしてねずみ男と立ちまくったキャラが綺羅星のように登場する。―――なんて今はこんな風にあっけらかんと言えるが、子供の頃は全然事情が違っていた………。
 
保育園から小学校低学年当時、兎に角「ゲゲゲの鬼太郎」は苦手だった………。怖くて怖くて仕方がなかった………。じゃあ見なきゃいいのにと思うが、これがなぜだか見てしまう。そして後悔する。夜が来ると尚更後悔する。トイレの隣にある洗面所の鏡がイヤで、何度もオシッコを我慢したっけ。2階の子供部屋に行くのに、臆病な自分を鼓舞する為、おもちゃの刀を振り回してた事もあった………。

父親の友人にこんな人がいた。僕の顔を見たら必ず「ゲッゲッ、ゲゲゲのゲェ~」と歌うおじさん。低音のおどろおどろしい声色で、不気味な顔をして、とても雰囲気たっぷりに歌う………。リアルに最悪だったな………。

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ある日、雑誌を読んでいたら、「ゲゲゲの女房」という本が刊行されるとあった。三つ子の魂百まで、ゲゲゲというフレーズに散々悩まされてきた僕がこのタイトルを見落とす筈がない。その本は水木しげる先生の奥様、武良布江さんが書かれたエッセイだった。そして、このエッセイをベースにNHKが朝ドラを作る事を知った。

描いても描いても売れないマンガ、貸本業界の斜陽、原稿料の不払い、なけなしの金で買い集める戦艦のプラモデル………、それでも必死で生きていく水木夫妻の姿が健気に、どこかユーモラスに描かれる。

先日義父母が我が家を訪ねて来た時、朝ドラの話になった。義父は言う。「貧乏してるのにプラモデル買うところなんか、あんたにそっくりやね」と。すると、義母も「そうだ」と笑って同調、嫁さんも「あの頃、お金がないのにどんどん怪獣だけが増えていったのよね………」と話し出した。

今では仕事場に300体ほどの怪獣キットが並んでいる。水木先生が言う「プラモデルで連合艦隊の再建を目指す」は、僕の「ウルトラ怪獣立体図鑑を作る」という気持ちと似ていると思う。金がなくても、一食減らしてでも、服なんか買わなくてもこれが欲しいという底なしの気持ち………、だからこそ働くエネルギーも湧いていくるというものなのだ。

エッセイの中にこんな一文があった。
「このときつくった連合艦隊のプラモデルはいまも自宅につくった小さなギャラリーに。一部は境港の「水木しげる記念館」に展示されています。私の思い出もいっぱいつまっています」
素晴らしい………。ちゃんと現存してるなんて………。水木先生は僕の先達、僕もあの当時の純な想いを忘れず、仕事にキットに邁進していこうと思う。

―――もしも、嫁さんがエッセイを書く日が来たとしたら、どんな風に書くのかな?水木先生の奥様と違って、
「私の「イヤな」思い出もいっぱいつまっています」
なんてフレーズにならなければいいが………。

2010/6/15 火曜日

『「はやぶさ」、お帰り。ほんとにご苦労様………』

小森陽一日記 13:46:55

「ただいま………」
大気圏突入時、あの強烈な輝きはまるで僕等にそう言っているようだった――――。

MUSES-C、「はやぶさ」が地球に帰って来た。2003年5月9日13時29分に鹿児島宇宙空間観測所から打ち上げられ、2010年6月13日22時51分(日本時間)、大気圏に突入して燃え尽きた。7年と35日間、60億kmという途方もない距離をたった一人で飛び続け、きちんと役目を果たして逝ってしまった。
そんな「はやぶさ」の姿に様々な想いを馳せた人も多かっただろう………。

事細かに追っていた訳ではない。だが、月よりも遥かに遠い小惑星「イトカワ」に行って、岩石試料を回収し、それを地球に持って帰って来る―――、そんな途方もないプロジェクトが立ち上げられ、実行され、様々なトラブルを抱えている事は時折入るニュースで知っていた。

実際のところ、不可能だと思っていた。打ち上げに連続して失敗し、日本の科学技術が信頼を失くし始めてた頃の話だったから。
「月にすら行った事がない日本が、小惑星の石を持ち帰るなんて出来っこない」
醒めた気持ちが最初からあった。

度重なるエンジンの不具合、燃料漏れ、軌道を外れて行方不明………、しかし、その度に「はやぶさ」はトラブルを乗り越えた。「はやぶさ」を信じ、ただひたすらサポートしてきたスタッフの想いは電波に乗って宇宙空間を飛び越え、幾度となく「はやぶさ」に届いた。機械と人、この間に結ばれた絆、僕はこの絆に強烈な感動を覚える………。

「はやぶさ」が燃え尽きる瞬間、最後の写真を撮った。それは地球の姿だった。失敗したコピーのように光が伸び、片側が潰れた写真、しかし僕はその写真を見た瞬間涙が溢れた………。たまらなく切なく、そして愛おしくなった………。

果たして回収されたカプセルの中に岩や砂粒は入ってるか?極論すれば僕はなくても構わないと思っている。「はやぶさ」はもう沢山のものを届けてくれた。それは「想い」であり、「絆」であり、「可能性」だ。「はやぶさ」からのプレゼントを受け取った者達はきっと宇宙に携わり、新たな可能性を押し広げて行く事になる。これこそ最高最大の功績に違いない。

「はやぶさ」お疲れ様。どうかゆっくりと休んで下さい――――。

2010/6/8 火曜日

『嫁さん、大地に立つ!!』

小森陽一日記 14:08:04

当初はどうなる事かと思ったが、退院して無事に娘の運動会に行く事が出来た。もちろん嫁さんの話である。小学校最後の運動会、これで一区切りだから内心は娘も来て欲しかったようだ。兎に角間に合った。

装具を取り付けた足はまるでパワードスーツのよう、グググと大地を踏みしめて立ち上がる姿はガンダムを思い起こさせる。これを付けると歩くスピードはカタツムリ並みだが松葉杖はいらないのだ。しかし、動き過ぎると夜、足が浮腫むそうである。リビングのソファに寝そべって、足を高く上げている姿はお世辞にも見栄えがいいものではない。………なんてそんな事を書くとまた叱られるのだが。

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沢山の方から心配や励ましのメール、お見舞いなどを頂いた。本当にありがとうございます。まずはこの場を借りてお礼申し上げます。
そんな中、警察関係の方々にアキレス腱断裂率が高いのには驚いた。特に剣道や逮捕術やってる人に多いようだ。踏み込んだ時に「ブツッ!」とやって、「イタタタ」と転がり、動けないまま「ボーッ」と病室で過ごす。病気じゃないから頭はしゃきっとしてるし、食欲もあるし、ただもうヒマでヒマで仕方がない。それが我慢出来なくなったある猛者は、無理やり動き出して無事な方の足に変な重心を掛けてしまい、「ブツッ!」とやってしまった………なんていうお話も伺った。本人は自己責任なので仕方ないと思うが、家族はたまらんだろうなぁ………。

娘の塾の送り迎え、ちょっとした買い物、急に雨が降ってきた時の洗濯物入れ、その度に原稿を中断してバタバタ動くのはやはり辛い………。それまで書き進めて来たテンションに中々戻れない事だってある………。あと二ヶ月これが続くのか………。ああっガンダム、走れとは言わない。せめて早いとこスタスタ歩けるようになってくれぇぇぇぇぇぇ! 

2010/6/1 火曜日

『家事を張り切る』

小森陽一日記 14:10:18

嫁さんが入院した―――。
娘と家に帰って来るとやはり違和感がある。物音が一つ足りないのだ。冷蔵庫を開ける音、食器を直す音、ゴミ袋を用意する音、そして足音………。
仕方がない………。
一つ物音が足りなくなった家で、娘と2人、しばし頑張るしかない。

娘を学校に送り出して食器洗い、洗濯、掃除。それを終えてしばし机に向かう。
こういう時こそ仕事を遅らせてはいけない!
そう思ってパソコンを立ち上げ、メールを開く。
すると、「ん!?」
なぜだろう………、こういう時って突発事態が重なるものである。
一気に集中してアイディアを捻り出し、冷めてしまったコーヒーを飲んでほっと一息。

先日はカレーを作った。僕は辛口シーフードカレー、娘は甘口ビーフカレー。たっぷりの野菜をフライパンで炒め、海老や貝や牛肉を炒め、それを沸騰した鍋に入れて3時間ほど弱火で煮込む。玉葱も人参もじゃがいもも肉も、ふんわり柔らかくなったところでカレールーを入れる。そしてまたぐつぐつ煮込む。半日掛けたらパパ特製とろとろカレーの出来上がりだ。
これだけ鍋一杯に作っておけば2~3日は持つだろう。………と思ったのだが、娘の予想以上の食いっぷりで、一度で鍋の底が見えるくらいにしてしまった………。目下運動会の練習真っ只中、腹減ってるんだろうなぁ。

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そんな話をお見舞いに行って嫁さんに報告する毎日。傷の痛みも日に日に消え、リハビリも始まった。来週には退院も出来そうである。
何はともあれ、よかったよかった。

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